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UX Pioneers:アラン・クーパー氏インタビュー
2009年7月17日 掲載
『DESIGN IT! magazine』vol.3のReview+Communication「Reports」にて抜粋・掲載された記事全文を掲載しています。
“アラン・クーパー氏は、機関車よりも強いエネルギーを持ち、弾丸よりも速く思考する人物。彼はまた、キーボードの入力も超高速でこなすに違いない。というのも、UIデザイン分野に関する極めて有用な書籍群、あえていうならペルソナに関する本を何冊も執筆し続けているのだから。アランによるペルソナの解説は、光彩を放ちながらユーザーエクスペリエンス分野に登場し、そのアイデアは今なお話題の中心であり続けている。彼がたどる歴史は、この分野に大きな影響を与えた人々を記した「人物名鑑」であり、基礎的なテクノロジー群の記録としても読みとることができる。そしてもちろん、彼はいまも "列車" へのあふれる思いに立ち返る。そう、列車こそ、彼が最初に夢中になったものだから。” by タマラ・アドリン (インタビュアー、原著者)
アラン・クーパー氏インタビュー
アラン・クーパー氏
タマラ・アドリン(TA): 本日私は、アラン・クーパー氏とお話しできることを大変光栄に思っています。クーパー氏は、1999 年に私たちに衝撃を与えた『The Inmates Are Running the Asylum』 [amazon.com]の著者であり、インタラクションデザインやユーザーエクスペリエンス分野で非常に有名な方であり、多くの人々から尊敬されているクーパー社 [cooper.com](設立当初の名称はクーパー・インタラクションデザイン社)の創設者でもあります。
列車と建築、そしてコンピュータ
TA: クーパーさんは子どもの頃、どんなことに興味をお持ちでしたか?
アラン・クーパー(AC): 列車ですね。
TA: 列車ですか? それはおいくつのときでしょう?
AC: 4歳の頃です。
TA: どのようにして列車に興味を持つようになったのですか? また、なぜ列車がお気に入りだったのですか?
AC: 私はいまでもずっと列車を愛し続けています。小さな頃に木製の列車を手にしたとき以来の列車フリークです。そして列車以外では、私のおもちゃはすべて組み立て式の建築物セットでした。当時のアメリカにはまだ LEGO [en.wikipedia.org] はなかったのですが、LEGO に似た「Erector Sets」 [en.wikipedia.org]は持っていましたよ。設計することと組み立てることが好きだったのです。
TA: そういったものをばらすのもお好きだったのですか?
AC: 物をばらすことが好きだったという記憶は特にないですね。何かを壊すのが好きなタイプの子供ではなかったのです。ただ、破壊的な側面も持つ軍事関連のものは何でも好きでしたね。
TA: 私たちはいま CHI2007 [chi2007.org]のカンファレンス会場でお話しをしていますが、面白いことに、今朝ほどジム・フォリー氏は、「自分は列車で遊ぶ時間があってとてもうれしい」というお話からスピーチを始めておいででした。彼は、いよいよ SIG [en.wikipedia.org] TRAIN という分科会も始めるようですよ! 彼とは、一度語り合う必要がありますね。
AC: 本当ですか? 私も近頃、列車のためにたくさんの時間を費やしていますよ。
TA: お若い頃に興味を持っておられたことについて私がお尋ねしたのは、UX分野で活躍している多くの方が、この分野がまだ何も存在していない頃にご自身の出発点を置いているからです。学生時代や社会人としての生活の中で極めて創造性の高い選択をされた方がとても多いのは、実に興味深いことです。
実際のところ、私がこれまでインタビューしてきた人の中で、あなたは最も若い時分のご自身について語られています。高校や大学の時代の間に興味を持たれたことを、どのようにして追求し続けたのですか?
AC: そうですね。列車はその頃からずっと私の背後で、音を立てて走り続けています。でも、13歳になったある朝目が覚めたときに、自分が自分の人生をかけて何をやっていきたいかということに、文字通り「目覚めて」しまったのです。
TA: 13歳のときですか?
AC: 13歳のある朝、何の前触れもなく突然に分かったのです。建築家になりたいということに気づいてしまったのです。そうだ、そうなんだ! という感じで。
高校には建築関連の課程が2つありましたので、私はその両方の授業を履修し、これが自分のやりたいことだと信じていました。
ただ大変興味深いことに、大学では、自分がやりたいと思っていたような建築の勉強は全くやりませんでした。最終的にはソフトウェアの世界に魅惑されたのです。とはいえソフトウェアの開発は、まさに建築術そのものでした。まったく同じであるといえるでしょうね。事実、いま私はソフトウェアの発明家として、そして開発者として、同時代に建築家になった人々よりも多くの構造物を手がけていると確信しています。
近年、建築物の全体を設計して実際に建ててもらえる建築家はほとんどいません。一方ソフトウェアの分野では、すべての構成部品から全体像を描き出し、それを実際に作ることが可能です。これはまさに、建築のプロセスそのものです。
建築とは高度な技巧であり、また明らかに人間側に目標を置きながら、美的感覚を用いて技術を組み合わせていく面白い技巧であると思っています。人間が存在しない建築学は、工学の領域になります。建物は工学的に設計されなければなりませんが、「解決しようとしている人的問題は何か」を明らかにするのは建築学の一部なのです。
TA: 「建築とは、建築物内の空間をデザインすることだ」という説明を聞いたことがありますが、実際には空間中の流れに注目していますね。
AC: 建築物を作ることとソフトウェアをデザインすることには、興味深い類似点があります。それらの実践に関して人々が理解していると思い込んでいることには、たくさんの間違いがあります。私たちは、ウォルマート(米国に本部を置く世界最大のスーパーマーケットチェーン)が建設され、都市が破壊されていくのを目の当たりにしています。また、顧客の存在を疎んじるような CRM ソフトウェアを開発してしまうこともあります。ソフトウェアと建築の両方において、個々の技術というささいな木々が立ち並ぶために、本当に必要な「森」という存在全体が見えなくなってしまうのです。
エンジニアリングは三脚の中の1本ではありますが、ソフトウェアの設計は純粋なエンジニアリングとは違います。ソフトウェアの設計は人間側の問題を解決するためのものですから、人間側に立ってものごとを理解する必要があるのです。
多くのプログラマーが、技術的な部分に焦点を当てています。彼らは、技術的な課題を解決することや、タスクや機能を実装することが自分の役割だと考えます。そういったことも解決しなければならないのは確かですが、人間であるユーザーが成し遂げようとしていることの下で行わなければなりません。
TA: いまお話しされている定義は、「部品に着手する前にものごとの全体像を心に描くことこそが建築術である」ということですね。そして同時に、総体的に何かを見ることでもあり、決して単にレンガや桁、空間を見るだけではいけないということですね。
AC: その通りです。建築の世界で行うべきことは、「何がなされるべきか」によって決められます。それから、その目標を実現するために適切な技術が整理されるべきなのです。従来うたわれてきた "ハイテク緊急指令" は、「新技術を発明せよ。そして一般の人々がその技術を有用だと理解して盲信するように、速やかに市場で競争すべし」というものだったのです。
TA: なるほど。さてここで、高校時代のお話に戻りましょうか。当時は建築家を目指していのですね。当時、コンピュータは周囲にあったのですか? その頃から、コンピュータを見かけていましたか?
AC: コンピュータは世の中に出回っていましたが、高校には置いてありませんでした。コンピュータは職場や研究所の中にあるだけで、何百万ドルもするものだったのです。私は 1969 年度に高校を卒業した学年でした。だから私が高校で授業を受けていた、1969 年頃のことですね。
TA: それは、カリフォルニアでのことですね?
AC: そうです。ただ、私の高校生時代はつらい日々の連続でした。学校では何もかもがうまくいっていなかったのです。それである日、チューリッヒへの1人旅に出ることにしました。その旅先でぶらついているときに、銀行の地下室にあるコンピュータと出会ってしまったのです。当時のコンピュータルームには窓がありました。1970 年代の暴動の後には窓を付けないようになってしまいましたが…。
TA: そのことを、もう少し詳しく話ししていただけますか。
AC: 分かりました。サンフランシスコ湾の東側にある、バークレイのシャタック通り [maps.google.com]には、バンク・オブ・アメリカがありました。その建物は60年代に作られた古典的なもので、外壁が人造石でできており、地階の天上が路上から50cmほどの高さにありました。そして地下室に日光を取り込むことができるような、細長くて小さな窓が付いていました。歩道を歩けば、銀行のメインフロアを見上げながら地下にあるコンピュータルームを見下ろすことができたわけです。アメリカ全体で何百、何千というオフィスビルの地下室が、コンピュータルームになっていったのです。
70年代初期には、全米各地でたくさんの暴動が発生していました。これは言論の自由を求める過激な活動 [berkeley.edu]で、バークレー地域全体の通りで学生が暴れ回っていたものです。私もそこに行ったことがあります。学生ではなくちょっと立ち寄った外部の熱心な論者みたいな感じで、街にいたのです。私は良識的な人間で、窓や物を壊しに行ったわけではありません。興奮できて面白い何かを求め、素敵な女性と知り合いになろうと思ってぶらついていたような具合です。
そして暴動では、こうした窓から石やレンガやいろんなものが投げ込まれ、地下に置いてあった大変高価なコンピュータは破壊され、ガラクタと化してしまったのです。
TA: それは、初期のコンピュータシステムに対して頻繁に発生する事件だったのですか? 暴動が?
AC: そうですね。これは60年代後半から70年代前半に渡ってアメリカの都市部で広く起きた現象です。シャタック通りに行って銀行を見つければ、今でも地階を見下ろす窓があった場所が分かるでしょう。今はコンクリートとレンガの壁に覆われてしまっていますけれどね。
私は、1972 年にチューリッヒをぶらつきながら、窓から銀行の地階を見下ろしたときのことを今も思い出します。そこに見えたのは IBM360 というコンピュータで、ライトやボタン、スイッチやつまみなどで覆われたパネルが付いていて、とても印象的でした。そこに立ち止ってコンピュータを見ながら「僕は、このボタンやつまみやライトが何のためにあるのかを学んでみよう」と思いました。そして実際に、その後数年をかけて学び、やがて「人々の注意をひきつけるためにそこにある。これがそのボタンたちの重要な役割だ」と考えるに至ったのです。
TA: そうでしたか。銀行の窓を通じて、コンピュータに魅了されてしまったのですね。
AC: 魅了されましたね。その後ヨーロッパから家に戻りました。ヨーロッパでの放浪は、自分自身を探す旅だったのです。
TA: 誰もが一度はそうするように、1人旅に出たのですね。
AC: そうして、探し出したことの1つがコンピュータでした。 カリフォルニアの家に戻ってからコミュニティカレッジに入学し、プログラミングの授業をとることにしました。そして数週間のうちに、プログラミングとは素晴らしい魔法が使える空間なのだということを知りました。その空間では、壮大な規模で複雑かつ興味深い構築物を作ることができ、自分でそれらを完全に制御することができました。すべて自分だけでできるのです。自分自身が作ったプライベートな空間に、自分だけの世界を持つことができたのです。私は完全に、プログラミングに魅せられてしまいました。
TA: 水を得た魚、の状態ですね。
AC: 一心不乱にプログラミングをしましたよ。プログラミングが好き好きでたまらなかったし、自分にとってとても自然なことでした。
TA: 高校で何もかもがうまくいかなかったためにヨーロッパに出かけ、アメリカに戻ってきた後、極めて数学的で難しく、論理的な世界に飛び込んだというのは、大変興味深いお話です。
プログラマーとしての活躍
AC: プログラミングはそんなに数学的ではありませんよ。まぁ、たしかにロジカルで複雑な世界ではありますけれどね。しかしそのロジックが、私にはとても納得のいくものだったのです。コンピュータは美しかった。ソフトウェアは美しかった。ただ面白いことに、それでもなお、私は建築家でいたかったのです。
私はプログラミング初級の授業を専攻しました。というのは、建築学校の学費を払うのに必要な資金を稼ぐには、パートタイムで仕事をするのが自分にとってベストだと思っていたからです。そうするつもりだったし、そういうものだと思ったのです。
プログラミングの世界にはまってしまったような感じでした。実際に一緒にプログラマーをやっていた友人がいたのですが、彼が「君は働きに出るべきだ。君は僕が一緒に仕事をした人の中で一番素晴らしいプログラマーだよ」と言ってくれたのです。それで私は、「それじゃぁやってみるよ」と答えました。
それから仕事探しに出かけて、プログラミングの職を得たのです。
TA: それは、どこでですか?
AC: アメリカン・プレジデントライン社 [en.wikipedia.org]という、サンフランシスコにある海運関連企業で仕事をしました。腰まで伸びた長い髪をして、ネクタイをしていたものです。
TA: 読者の皆さん、このページの先頭にあるアラン・クーパー氏の写真をご参照ください!(笑)
AC: 私は、救世軍で買った中古ネクタイを何本か使いまわし、極めて反体制的な文化の中で生活をしましたが、それは素敵な時代でもありました。ビジネスの世界におけるコンピュータプログラミングの黎明期で、まだ「ビジネスデータプロセッシング」と呼ばれていた頃です。この会社の人は、誰がコンピュータを動かしているのか知りませんでした。
会社の人たちは、「コンピュータを1台手に入れて、売掛金を計算させないといけないな」と言ってコンピュータを購入し、それを持って会計担当者のところに行き、「君が売掛金担当者なんだから、このコンピュータをプログラムしてくれ」と言って渡しました。
やがて会社の人たちは、売掛金担当者はプログラミングの方法など知らないことを知り、プログラミングそれ自体が専門的な仕事であることがはっきりしてきました。すると今度は、「プログラマーになりうる人をどのようにして探すのか」というやっかいな課題が誕生してしまったのです。チェス競技をしてみましたし、IQコンテストもやってみましたが、本当に難しい問題だったのです。
そしてまた、今日の人々も同じような課題を抱えているといえます。いろんな人々が私に「インタラクションデザイナーを特定するにはどうすればいいでしょうか?」と尋ねるのですからね。
TA: 本当に、同じ問題ですね。
AC: そうなのです。いま、プログラマーを特定するにはどうするでしょうか? そう、プログラマー自身が決めるわけです。自分はプログラマーだという人がプログラマーで、それこそがプログラマーを見分ける方法です。
TA: こうしてあなたは、ポニーテールの頭をして仕事を始めたのですね。
AC: そうですね。だから私は、会計担当者とは一歩距離を置いている人たちと仕事をしていました。彼らもみなプログラマーですが、運輸ビジネスの背景を持つ人たちが何人かいて、見ているのがとても面白かったですよ。
私は一番若くて、一番長い髪をしていました。そして、そこにあった中でも一番ちゃちな、COBOL [en.wikipedia.org]で書かれたモジュールを渡されて、「これをなんとかしろ」と言われました。
即席で作ったかのような、分かりにくいプログラムの探検を始めたわけですが、それは、かつて見た中でも史上最悪のしろものでした。
TA: 会計関係のプログラムだったのですか?
AC: 面白いプログラムでしたよ。「貨物輸送の標準見積もりシステム」と呼ばれていたプログラムです。
アメリカン・プレジデントライン社は、貨物汽船を22隻所有していて、それを世界中に送って使っていました。港と港の間を1ヶ月以上もかけて航海し、ある港に停泊して貨物を降ろし、そこで新しい貨物を詰め込んで、また航海に出るのです。
6ヶ月くらい過ぎた頃には、ジャカルタやシンガポールやラングーン、その他各地で貨物を扱った港湾作業 [en.wikipedia.org]の請求書が、サンフランシスコの本部に集まってきます。しかし料金は荷降ろしの時点で発生するものであったため、その情報は一刻も早く会計担当者に引き渡される必要がありました。
ジャカルタやラングーンなどあちこちの港からは、港務部長が手書きの数字を電信で送信してきます。例えば「150トンの荷降ろし完了」「200トンの荷積み完了」といったような内容です。
するとこのプログラムは「1トンあたりの費用がいくらになるか、正確に分かりません。しかし、為替レートと前回の費用に基づいて計算すれば、1トン当たりおおよそ8ドルになると思われます」などと回答します。これが暫定的な数値として会計係に知らされるわけですから、会計係はその時点では道理に合う見積もり額を得ることができます。しかし同時に、実際の請求書が提示される6ヶ月後にはまた再調整をしなければならないことも知らされるわけです。
TA: これこそ、コンピュータに最適な仕事ですね。
AC: 完全にコンピュータ向きの仕事です。このプログラムはコンピュータで動いていましたが、会社組織全体の中ではさほど重要な扱いを受けていないものでした。IBM 370-135 [ibm.com]というメインフレームが使われていて、私たちが今いる奥行き18m幅9mくらいの部屋に陣取っていたことを念頭に置いてくださいね。巨大な冷却装置と2名の職員がフルタイムでそのコンピュータの面倒を見ていました。たぶん iPod よりも処理能力が低かったのですが、それにも関わらず200万ドルもするものでした。職員が3交代制でそのコンピュータを一日中稼働し、この運輸会社に必要な計算のすべてを実行していたわけです。
私が渡されたプログラムは、実行するのに1日あたり4時間かかりました。本当に、すべてのメインフレームを1日に4時間かけて稼動する必要があったのです。
ある日、そのプログラムの中を探検していたときのことです。私は誰か他のプログラマーがそこに書き込んだ、初歩的なミスを偶然見つけてしまいました。
TA: どんなミスだったのですか?
AC: 初歩的なミスです。あるループの中に、read 文が残されていたのです。
そのコードは、必要もないのにすべてのレコードを1000回も re-read するようになっていました。私はそれを見て「ここが間違っているようです」と言い、その後2、3日を費やしてそのコードが隠れた意味を持っていないことを確認するためにいろいろ調べました。そしてついにその1行を、つまり余計な read 文をコメントアウトし、翌日にプログラムを実行しました。そのプログラムは4分で完了し、正しい結果を出力したのです。
TA: ROI がすごいことになりましたね。
AC: 私はその会社のヒーローになりました。これはすごいことでした。私がアメリカン・プレジデントライン社で評判になったのは、たった1行のコードのおかげだったわけです。
TA: これはいつ頃でしょうか?
AC: 1973 年です。
TA: 1行のコードをコメントアウトすることによって、素晴らしい評価を得たのですね。その後しばらくその会社にいたのですか?
AC: いいえ。これは、極めてちっぽけなへき地で得た、大きな評価にすぎません。私は若造のプログラマーであり、アプリケーションプログラマーだったのです。
プログラマーの世界には、いつでもこのような階級制度があります。純粋なアルゴリズムを駆使してコンピュータを扱うシステムプログラマーたちは、いつもアプリケーションプログラマーたちを見下しています。
当時私には、それまで遭遇したことがないほどものすごく優秀な、素晴らしいシステムプログラマーをやっている友人がいました。そこで私たちは、会社を起業することに決めたのです。
TA: それは、運輸会社を辞めたすぐ後のことですね?
AC: そうです。
TA: ご自分でビジネスを始めるのが早かったのですね。
AC: 私たちは何も知りませんでした。夜になってから集合しては赤ワインを飲みながら、自分たちが世界を支配するにはどうすればいいかを話し込んだものです。不適切に処理されていることがたくさんあったので、それについて不満を言いながらぶらぶらしていたのです。
1975 年にその友人が旅行に行った留守中に、私はこの、マイクロコンピュータの広告を見つけました。当時の人々はまだこれをパーソナルコンピュータとは呼んでいませんでした。初のマイクロコンピュータが、この Altair [en.wikipedia.org] だったわけです。
図1:Popular Electronics 誌の表紙を飾った Altair 8800
(出典:http://www.computermuseum.li/Testpage/POP-ELEC-Altair-Jan75.jpg
[computermuseum.li])
私は旅行から戻ってきた友人にこの広告を見せて、「これを見ろよ、自分だけのコンピュータを買えるんだ!」と言いました。するとこの広告を見て彼が言ったのは「ミニコンピュータの会計システムに2万ドルを投資する気のある会計士をさがして、1万ドルだけ請求し、そのお金でミニコンピュータを買い、会計プログラムを書いて渡せばいいんだ。そうすれば、僕たちはソフトを売り渡さずに維持しつつ、もう1台コンピュータを買えるから(同じ事をくりかえせば)ビジネスになるよ」という言葉でした。
「これは面白い! この間パーティに行ったとき、ある会計士と話したんだけど、彼はまさに、ミニコンシステムを買うつもりだと言っていたんだ」と私。
そして友人は「その人のところに行って話してこいよ。僕たちがこのアイデアを実現できるかどうかを試してみよう」と続けました。
会計士のところに行って話をしてみると、「それは名案だと思うよ」と返事をしてくれて、私たちのアイデアに乗ってくれることになったのです。
私と友人は、1人 7,000 ドル程度のお金を出し合いました。コンピュータを購入し、腰を落ち着けて総勘定元帳システムのコードを書く間、そのお金を使って会社を維持しました。
TA: そのコンピュータの値段はいくらだったのですか?
AC: 約 3,000 ドルでしたね。
TA: 1975 年の金額で?
AC: そうです。コンピュータの値段は、いつも 3,000 ドルくらいですね。年々コンピュータの容量と性能は倍になっていきますが、価格は数年前までずっと同じでした。
私たちが買った最初のコンピュータはメインメモリが48Kで、フロッピーのドライブが2つ付いているものでした。5インチではなく、8インチのフロッピーですよ。記憶容量は 170K でしたね。メガやギガではなくて、キロバイトです。
TA: そのコンピュータでは、どんな言語でプログラミングを行ったのですか?
AC: それが問題でした。言語というものがなかったのです。そして本当に、OSというものもなかったのです。私たちはあちこちを調べて回り、OSを探し出さなければなりませんでした。そして奇妙なことに、言語もOSも、やっと見つかったのは同じ場所でした。
カリフォルニアのモントレにある海軍大学院 [nps.edu]で教授をしていたゲイリー・キルドール氏 [en.wikipedia.org]と出会ったのです。ゲイリー・キルドール氏は、今私たちがいる業界の偉大なる父の1人であり、桁外れの天才の1人です。私は、彼こそが影のヒーロー中のヒーローだと思っています。
当時ゲイリーは、市場で唯一のマイクロプロセッサである 8080 を製造していたインテル [intel.com]のコンサルティングをしていました。彼は 8080 [en.wikipedia.org] のために CP/M [en.wikipedia.org] というOSを作っていて、彼が教える院生の1人で若い海軍将校だったゴードン・ユーバンクス氏 [en.wikipedia.org]は自分の修士論文として BASIC 言語のコンパイラーを開発していました。私たちはそのOSを採用し、動くようにしたのです。これは、現在入手できるOSと比べれば極めて原始的なものですが、当時 IBMから入手できた他のOSよりも性能が優れているものでした。
ところで当時は、10進演算ができる言語がなかったのですよ。10進数の演算なしで財務会計のプログラムを書くことを想像してみてください! 可能な整数演算は8ビット [en.wikipedia.org]で行うもので、使える整数は 32,767 まででした。ここにも問題がありました。
TA: 「すべての数字を 100 で割って使ってください」と会計士に言うことはできたかもしれませんが…
AC: そう、私たちはそう言ったのです。
TA: そんな、あり得ない!
AC: すべての数字を 32,000 で割ってから、大きい数値と小さい数値をすべて追跡しました。つまり、1つの金額全体を分割して計算を行った後、最終的にそれらを合体して出力したのです。
TA: おやおや、話がかなり数学的になってきましたね。
AC: いえいえ、これは全く単純なやり方です。 100,000 という数字を扱わなければならないときに、100 の位を計算して、次に 1,000 の位で計算して、最後にまとめて結果を出力するのとよく似ています。私たちはそれをやっただけです。これ以上原始的にやりようがない方法でした。
TA: 会計士はそのプログラムを気に入ってくれたのですか?
AC: ええ、気に入っていましたね。最近、彼とどこかで出くわしたときに、「もしもあのコンピュータをまだ持っているなら、ぜひ譲ってほしい」と言いましたが、「あと数か月もすれば最後の顧客の会計作業も終わるでしょう」という、冗談めいた返事をもらいましたよ。
TA: では次にもう少し、あなたが設立したアプリケーションソフトウェア会社についてお話を聞かせてください。ストラクチャード・システム・グループ [britannica.com]という会社で、70年代後期にはかなり大きくなったのですよね。カンファレンスでビル・ゲイツと出会い、お2人ともプログラミングの世界では重責を担うようになったのですね。
AC: 78年頃のことだったと思います。私は小規模な、パラメータを基にして出力するようなデータベースレポート生成プログラムを作りました。
初めての試みでしたが、会計士のために、ユーザーがプログラムを制御したり設定を変更したりできるようなプログラムを何種類か開発したのです。たくさんのことを同時に学びながら、まさにインタフェースの問題に焦点を当てて取り組みました。
TA: コンピュータ業界では、すでに「インタフェース」について語られ始めていたのでしょうか?
AC: そうですね。でもまだ「インタフェース」という呼び名はありませんでした。誰もそれが何なのかが分かっていませんでした。大学にはヒューマン‐コンピュータインタラクション [en.wikipedia.org]に関する見慣れない教科書があって、人々はそれについて話していたのだと思います。しかし私たちは、ソフトウェア開発という深い溝の中に入り込んでいました。私たちが行っていたのは、非常に実務的かつ営利的なことでした。
私たちがとったアプローチは、研究ベースのアプローチとはかけ離れたものでした。背景には何の理論も持たず、ただプログラムを作っていたというところは、ウェブの黎明期と似ていました。世間の人々は Web 上に何かを載せてはそこで何が起きるかを見ていましたが、私たちもまさにそんなことをやっていたのです。私が全く別の活動の一環としてデザインに焦点を当て始めるまで、丸10年は別のことをやっていたことになります。
人生を変える出来事との出会いと、様々なソフト開発プロジェクトでの試行錯誤
TA: その間に変わったことを教えてください。
AC: 1980 年には、ストラクチャード・システム・グループ社の所有権をパートナーに売却し、私自身は退くことにしました。
それと前後して、私もビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが経験したのと同じ、人生を大きく変える出来事と遭遇しました。そう、Xerox PARC [en.wikipedia.org] を訪問してしまったのです。
Alto [en.wikipedia.org] を見て自宅に戻ってから、ソフトウェアを開発するやり方が変わりました。
TA: なぜでしょうか?
AC: マウスとメニューとウィンドウ、そして、そこにあるものを「指し示す」というアイデアに出会ってしまったからです。
TA: ご自宅に戻ったときの頭の中は、もはや黒い画面上の緑色の文字ではなくなっていたのですね?
AC: そうです。完全に私の考えは変わっていました。
80年代の私は、ソフトウェアを開発し、それを発行元に販売していました。ワープロソフトをいくつか開発し、まさに初期のスプレッドシートといえるものも生み出しました。それはその当時、極めて先進的なことでした。
そしてシリアル通信プログラム [en.wikipedia.org]を作って発行元に売り込みました。その後、クリティカルパス [en.wikipedia.org]を扱うプロジェクト管理プログラムを作り、CA(コンピュータ・アソシエイツ)社 [en.wikipedia.org]に販売しました。それが、SuperProject という製品になったのです。これは Microsoft Project [en.wikipedia.org] のひな型ともいえる製品です。
TA: それは何年くらいのことでしょう?
AC: 1984 年ですね。
TA: ひたすらソフトウェアを開発し続けたのですね。
AC: それは、まさしく私がやりたかったことでした。70年代に最初の会社を立ち上げたときは、何もかも自分でやりました。すべての製品を考案し、設計し、開発し、それを市場に売り込んで販売しました。マニュアルを書いて、印刷所から自宅へマニュアルを積み込んだステーションワゴンで運搬し、たくさんの人に郵便発送をしたものです。まさに起業そのものでした。
その頃に比べれば、自分がやることの範囲を絞りこみ始めていました。80年代、自分ではひたすらソフトウェアの開発をすることにして、発行や製品化に関わることはやらないと決意したのです。ソフトウェアを考案し、腰を落ち着けてプロトタイプを作る。そしてそれを発行元に持ち込んで「このプロトタイプをご覧ください」と話す。あわよくば「これはいいですね。今すぐ契約書にサインをしましょう。あなたはこれを開発してください。私たちがこれを世間に発表し、次のことをしましょう」と言ってもらえることを期待しながらね。
覚えておいてほしいのですが、80年代、ソフトウェアを販売する企業は本当に何百社もあって、マイクロソフトはその中のただ1社に過ぎなかったのです。私は、コーディングのすべてを自分で行ったプロジェクト管理ソフトをCAに販売していたのです。これはとてもすごいことでした。当時、そんな類いのソフトはどこにもありませんでした。クリティカルパスを扱うプロジェクト管理ソフトは他にも存在していましたが、そこでは、大きな表に自分でデータを入力しなければならなかったのです。
私が作ったプログラムは、画面や紙の上にクリティカルパスの絵を描くものでした。私は すでに Xerox PARC に「入信」していましたので、マウスを使う以前に緑色をした画面 [en.wikipedia.org]の上でそれを実現したわけです。ファンクションボタンを押すと四角いマスが現れて、矢印キーを押すことでそれを画面上で動かすことができます。2つの数字を入力してから、あるマスと別のマスをつなげると、クリティカルパスの依存関係が確立します。それからクリティカルパスが算出されるようになっていました。これはものすごくイケてるプログラムだったのです。
TA: GUI [en.wikipedia.org] 風だったのですね。
AC: ええ。緑色の画面上の GUI でした。グラフィックの解像度は低かったのですが、うまく機能しましたね。
TA: PONG [en.wikipedia.org] が思い浮かびます。
AC: ええ、PONG に似ているところがたくさんあります。でも、私がCAに販売したプログラムは本当に働き者で、それを使えばたいへん洗練されたプロジェクト管理ができたのです。その後はCA に別れを告げ、次の仕事に取り掛かるために立ち去りました。
そして取り組んだのが、地理情報システムです。それは、DIME [en.wikipedia.org] ファイルを使っていたことを除けば、今の Google Maps [en.wikipedia.org] と同じようなものでした。DIME とは、今日 Google Maps や Google Earth [en.wikipedia.org] が扱っているようなファイルですが、当時としては最新の地理情報ファイルだったのです。写真を撮って回る人工衛星などなどありませんでしたし、たとえあったとしても、その情報は当然ながら公開されていませんでした。
"可能" だったのはせいぜいカリフォルニア州の輪郭を線で描くことくらいだったのですが、私はそれを元に仕事を始めました。
これは、自分が考案した中でも一級品のソフトウェアの一例ですが、販売はしませんでした。その理由の1つは、自分で実現したいと思っていたことができていなかったからです。私は真のグラフィックアプリケーション環境を求めていたのですが、当時、そんなものはどこにも存在していませんでした。だから自分で開発していたのです。
私は根っからの仕事好きだったわけですが、全くもって愚かでした。ある日友人が私をつかまえて、そう、まさに私の身体を引きずって、サンタクララのどこかで行われていた Microsoft Windows バージョン1の発表会に連れて行ったのです。そして「これこそ、君が求めているものだろう?」と、友人は言いました。
私はそのプレゼンテーションを見て「そうだ。これが、私がずっとやってきたことだ。私がほしいものなんだ…」とつぶやきました。ひとりで奮闘するくらいなら、マイクロソフトから Windows を購入したほうがよかった。なぜなら私は自宅で、まさに自分ひとりで Windows のプログラムを書こうとしていたのですから。
私は、アプリケーション開発者として Windows を採用した、アーリーアダプターになったわけです。
TA: それもまだ80年代のことですか?
AC: 1986 年のことですね。
その頃から、ソフトウェアの様々な部品をいじり始めました。何をやっているときだったかは忘れましたが、気づいたことがありました。それは当時 Windows を使っていた人ならみんな感じていたことだと思いますが「ううっ! これは確かに MS-DOS [en.wikipedia.org] よりパワフルだけど、ユーザーシェル [en.wikipedia.org]がひどすぎる!」という点です。それは本当にひどいものでした。
当時は、自分でうまく動作するアプリケーションを作ることができても、ユーザーが自分で保存しているファイルを調べようとしてディレクトリの中身を見るときは、MS-DOS 上にあったどんなプログラムよりもひどい Windows プログラムを使わなければならなかったのです。
Windows シェル [en.wikipedia.org]がひどいものだったことは、誰の目にも明らかでした。それを使ってなんとかしなければならいことは分かっていても、ものすごく扱いにくいのです。それで私は、どうにかしてそれに代わるものを作れないか、時間の合間に考えにふけったものでした。
これは難題でした。いわば、Mac Finder や Windows デスクトップのインタフェースのようなものなのですが、当時そんなものはどこにもありません。いったいどんなものがいいのか、誰にも何の確信もありませんでした。
そうしたある日、私は、友人のクライアントの1社であるであるバンク・オブ・アメリカに同行することになりました。そこで銀行本店のIT担当者と会ったのですが、その担当者は「3万人の従業員に Windows をうまく使ってもらわなければならない」という大きな課題を抱えていました。
従業員には、実際にコンピュータをいつも使っている上級アナリストや、使い方は知っているが主な業務としてそれを使うことはない中間管理職クラスの銀行員もいましたが、大多数の従業員は高卒の出納係だったことが問題でした。出納係の職務内容は慎重に線引きされていなければならなかったのです。
そこで私は、突然ひらめいたのです。Windows シェル問題の解決策として、「組み立て式の建築物セット」を提供し、自分だけのシェルを構築してもらってはどうかと思いつきました。アナリストたちは、高機能なプログラムを実行するシェルを自分のために組み合わせ、中間管理職クラスの人々には複雑なことを全て見えないようにしたシェルを与え、出納係には極めて単純かつ厳密に固定されたシェルを組み合わせたものを与えれば良いのです。
TA: 異なるユーザーインタフェースを用意するということですね?
AC: そうです。ウィジェット一式を用意しておいて、自分たちで組み合わせて使ってもらうのです。その日自宅に戻ってからプログラムに着手し、頭と手を同時に動かして作りました。これは基本的に、フローティングメニューのことです。そのメニューにはプッシュボタンとリストボックス、チェックボックス、ラジオボタンがあって、それらはすべて Windows のコントロールとして馴染みがあるものでした。
Windows を起動した後、上部の小さなウィジェット [en.wikipedia.org]のパレットが置かれている部分で、メニューボタンの絵をクリックし、それを下のほうにドラッグし、ウィンドウの上でドロップします。すると新しいボタンがウィンドウの中に現れます。そして画面の上部から、今度はテキストボックスをドラッグしてきてウィンドウの上でドロップし、それからボタンの上で右クリックをして、ラバーバンドをテキストボックスまでドラッグしてきて放す。するとプッシュボタンがテキストボックスとつながる。
それからプッシュボタンを押せば、テキストの一部がテキストボックスに送られます。
TA: エンドユーザーのほうがなんとか折り合いをつけて、そういった作業をうまく実行しなければならなかったのですよね?
AC: そうなのです。ワープロを趣味で操作する人など、誰もいませんでした。コンピュータはまだまだ、職場で使うためだけに購入されるものだったのです。
このアイデアは、使う人が自分自身でシェルを視覚的にプログラムできるようになるということを意味していました。当時は OS/2 [en.wikipedia.org] というOSがあって、それが主流でした。OS/2 にはシェルがあったのですが、私が作ったプログラムには、10分程度の操作で OS/2 のシェルを Windows 内に再現できる機能があったのです。
これはすごい機能でした。ドラッグ&ドロップができる Windows アプリケーションは、これが最初でした。私は、何かをドラッグしたときにそれが動いているように見えるようにもしました。Windows の画面上で、まだ誰もアニメーションを見たことがなかった時代です。
出納係であれば、画面上には、自分が日常的に実行する3つのアプリケーションに対応した3つのボタンが与えられます。
中間管理職クラスの人々には、必要な機能をすぐに起動させるためのボタンと、自分がいじっているファイルだけが、小さなディレクトリに提示されます。
アナリストであれば…、そうですね、高度なシステムを開発しているシステムアナアリストであれば、月曜日にはあるユーザーのシェルだったものが、作業を進めるうちに変わっていき、火曜日には全く別のユーザーシェルにできるといった具合です。
TA: コーディングしたことについてずっとお話をされていましたが、今ここで急に、まったく違うやり方で開発した話になりましたね。実はコアとなる要素は、「誰がそのソフトウェアを使うのか」という点にこそあるということを発見されたのでしょうか。
AC: ソフトウェアを実行する人のことについて考え始めたのは、SuperProject でクリティカルパスを扱っていたころからですので、もう少し早かったと思います。何人かに、「プロジェクト管理について、何かご存知のことはありますか?」と尋ね回っていました。
正式なメソッドはなく、ただ日常的に出会う人々に尋ねるだけでしたが、最終的にある広告代理店で業務促進担当をしていたキャシー・リーという女性と話してからは、その後たくさんの仕事を彼女に基づいて進めることになりました。
結果的には、私のプログラムが使えないものだということを発見したのが彼女でしたので、屈辱的な気分も味わいました。つらい経験でした。しかし「キャシーならどうするだろう? ここで何をほしがるだろうか?」と自問したのは正解でした。
これが、ペルソナのアイデアの始まりの始まりでした。キャシー・リーのためにデザインするというミスは犯しましたが、キャシー・リーという人物像の要約のようなものを作り出し、私の頭の中でペルソナとしたのです。
私はプログラマーでもあったので、ユーザーと実際に話をしたくない、ユーザーと話すのは厄介だ、と思っていました。
TA: いろいろなことを考えながら、実際にはコーディングをしていたのですね。
AC: そうです。Tripod という、先ほどお話しした「シェル組み立てセット」プログラムを作ったときも同じでした。それは、バンク・オブ・アメリカで話を聞いたITマネージャのために設計したもので、その時すでに3つのレベルのユーザー(上級アナリスト、中間管理職、高卒の出納係)がいることがわかっていました。
当然、それぞれのレベルがひとつのペルソナになるのです。
TA: それでどうされたのですか?
AC: そのプログラムを売ろうと試みましたが、それは単に、世間にたくさんある製品の1つに過ぎませんでした。素晴らしいソフトウェアですが、それを使って何ができるのかをはっきり示すことが誰にもできなかったのです。その後ロータス社のような大企業も含め、ソフトウェア業界の人々何人かにそのプログラムを見せたところ、「ほおー、これはちゃんとできているソフトウェアだね。一種のシェルとして、マイクロソフトに売り込んだらどうだい?」と言われたのです。
その時点で私はまだ、電話をして「見てほしいものがある」と直接いえるほど、ビル・ゲイツ氏 [en.wikipedia.org]のことを知りませんでした。でもマイクロソフトで仕事をしていた友人は何人かいましたので、彼らに、ビル・ゲイツ氏に会わせてくれるよう頼んだわけです。そうして、ビルの側近の1人から招待を受けることができました。
その人は「こちらにお越しください。あなたが作ったものを私が見てみましょう」と言いました。それで彼に会いにシアトルに行きました。その人の名前は忘れてしまったのですが、そのときカンファレンスルームには彼と私の2人しかいなくて、そこで私が自分のコンピュータを取り出してソフトウェアのデモを始めたわけです。
彼はデモを3分くらい眺めた後に椅子の背もたれに寄りかかり、「ビルがこれを見ないといけないな」とつぶやきました。
TA: いい感じですね。
AC: それからビルと会う時間を設定して、プログラムのデモをしに再びシアトルに行きました。画面上でドラッグのアニメーションを見せたとき、ゲイツ氏は私を見て「これは、いったいどうやっているんだ?」と聞き、Windows 上で動くそのようなアニメーションはかつて一度も見たことがないと話してくれました。「魔法を使っています」と私は言いました。他になんて言えばよかったのでしょう?
私がデモを続けていると、ビルはそこにいた人たちを振り返って、「僕たちこそが、こういうことをやっていないといけないんじゃないか?」と言ったのです。とても嬉しいことでした。
その部屋の中にいた1人、タンディ・トロワー氏 [gatech.edu]は「これを欲しがる人なんているのでしょうか? これが何の役に立つのですか?」と言い、私が彼に売り口上を言おうとして息を吸ったときにビルがまた振り返り、世間の人々がこのプログラムを欲しがる理由を説明し始めたのです。それからビルは私の方を向いて、「これを購入したい。これは、人々がコンピュータを使って仕事をするやり方を変えるだろう」と言ってくれました。
TA: デモをしている人には、何よりも嬉しい言葉ですね。
AC: この上なく嬉しく思いました。そしてビルは、私と私のプログラムを Windows チームのメンバーに引き渡したのです。当時は、ひどい代物でありながらもプレゼンテーションマネージャ [en.wikipedia.org]が主流で、Windows は戦略的に価値のあるソフトウェアだと見なされていませんでした。
TA: これはいつ頃のことでしょうか?
AC: ビルに Tripod のデモをしたのは 1988 年の3月で、マイクロソフト社がまだ IBM と共生関係にあった頃です。先ほど触れたように、私のプログラムでできたことの1つは、OS/2 のプレゼンテーションマネージャを再現することでしたので、政治的な対立が発生しました。私は、マイクロソフトの人々に面と向かって説明したのです。「見てください。私は OS/2 のプレゼンテーションマネージャを今から作りますよ(カチャ、カチャ、カチャ、バーン!)」とね。
もしもあなたが OS/2 の製品管理担当者だったら、激怒するはずです。
TA: マイクロソフトは、そのプログラムを購入したわけですか?
AC: ええ、購入してくれました。ゲイツ氏の言う、これまで見た中で最高の仕様に合わせてコードを拡張し、同じプロジェクト内にいたマイクロソフトの品質監査チームに渡しました。
契約を交わしてすぐに、私たちは Tripod という名称を Ruby に変更しました。なぜなら、私はその製品をすでにロータス社や他の会社に見せてしまっていたからです。これは特に深い意味のないプロジェクト名称でした。いま現在 Ruby [ruby-lang.org] という名の言語が存在していますが、当時の Ruby は、私たちが用いていたコードネームだったのです。
1年ほど、私はその仕事に取り組みました。チームをまとめてプログラムを開発し、厳重な品質監査のサイクルを通し、マイクロソフトに提供したのです。その間に、マイクロソフトは IBM と離別しました。そして OS/2 がそれまでにやってきたことを Ruby で再現できてしまうからと、OS/2 の人々が Ruby を葬り去ったことを確認してから、マイクロソフトは OS/2 をも手放しました。
TA: Ruby に1年間を費やしたのに、それが使われないことを知ったわけですね。
AC: そうなのです。マイクロソフトは Ruby を受け入れ、私たちへの最後の支払を済ませ、感謝の意を口にしましたが、それ以後 Ruby がマイクロソフト社から公開されることはなかったのです。
TA: 重いレンガで叩かれたような感じですね。
AC: 辛かったですね。私は周囲の人々に、マイクロソフトにコアとなる技術を販売したのは自分だと話していたのに、Ruby は公開されず、社内の最高機密だったために知っている人もいないという、私の人生の中でもつらい時期でした。
私が Windows チームのメンバーに告げた言葉の1つは、自分は Tripod を捨てて、ゼロから着手するということでした。ソフトウェアを作る正しいやり方だといえるでしょう。
彼らは激怒しました。そして「何をやっているんだ? コードを放り出す? 開発期間の締め切りに遅れてしまうぞ。君はわれわれ全員の進行を妨げることになるんだぞ」と言いました。
もちろん後になってから、間に合わなかった彼らのほうで、私のほうは予定通りに出来上がりました。なぜなら私はそのコードを捨てたからです。重要なのは、その時々の状況に応じられる知識であって、それまでのやり方ではないのです。当時のマイクロソフト、少なくとも Windows チームでは、こうした近代的プログラム技術をまだ分かっていませんでした。
Visual Basic の誕生とコンサルティングビジネスへのチャレンジ、そして 「ペルソナ」 へ
TA: それからどうなりましたか?
AC: 1年半くらい経ったころでしょうか。Windows チームが言語を扱う部門に Ruby を委譲し、私が開発した部分に QuickBASIC [en.wikipedia.org] を追加しようとしているといううわさを耳にしました。
私は BASIC [en.wikipedia.org] があまり好きではありませんでした。BASIC は100行程度のプログラムを書く際には優れた言語ですが、大規模なソフトウェアを作る際には使えないものでした。私の業績が BASIC と少しでも関係があるというのが恥ずかしかった。
当時、Turbo Pascal [en.wikipedia.org] は言語の中で圧倒的な勢力を持っていました。
QuickBASIC はビルの製品ですが、Pascal [en.wikipedia.org] や C言語 [en.wikipedia.org]を勝ち負かすことができなかったため、忘れ去られた製品となっていきました。C言語はプロ向きで、Pascal は素人向きでした。
私はC言語で Ruby を開発していましたが、とても性能が良くて、自分に最適な言語でした。しかしC言語は取っ手が付いていないナイフのようなものでもありました。自分がやっていることを理解せずに使っていると、自分を傷つけてしまうことがあった。器用な人でなければ使えなかったのです。
ビルは部下たちに、私が作ったちょっとした言語を切り出して、QuickBASIC に加えるように指示をしました。つまり私の初期段階にあるビジュアルプログラミング部分を取り出し、C言語の部分を引き抜いて QuickBASIC を入れさせ、Visual Basic [en.wikipedia.org] を生み出したのです。だから私は、「Visual の部分を開発したのが私で、Basic の部分を開発したのはマイクロソフトだ」という言い方を好んでいます。
その頃、マイクロソフトは成長を続けていて、多くのメンバーが3~4ヶ月かかるプロジェクトをこなしては次のプロジェクトに取り組んでいました。私のことや私がやった開発について知る人は誰もおらず、プロジェクトとプログラムがあちこちに移動しているということだけが知られていました。何かのうわさを耳にしたのでしょう。ある人が、マイクロソフトの製品発表会に私を招待してくれました。
発表会が行われるワシントンに出向いてその製品を見たとき、私は本当に激怒しました。でも、本音を言わずに「いい出来だね」と言うようにしました。
マイクロソフトは、シェルに関する私のアイデアを採用し、そのすべてをプログラマー向けに提供したのです。Ruby は、Windows 上で実際に DLL(ダイナミックリンク・ライブラリ) [en.wikipedia.org]を使って提供されたアプリケーションとしては、まさしく最初のものでした。そのプログラムでは機能を視覚的に表現するだけでなく独立させてもいたので、サードパーティベンダーが開発システムの一部として動的に組み込める機能として、シームレスに使える部品になりました。これは当時、VBX [en.wikipedia.org] と呼ばれていたインタフェースで、私がオリジナルを発明したものです。これまでに OCX [en.wikipedia.org] や ActiveX [en.wikipedia.org] に変形されてきましたが、VBX は何千というプログラマーに好まれてきたプラットフォームとなりました。
TA: これは90年代初期のことですか?
AC: そうですね。Visual Basic 1.0 が誕生したのは、確か 1991 年のことです。
TA: あなたが立ち直った時期まで、話をスキップしましょうか。
AC: 分かりました(笑)。
ミッチェル・ウェイト [mitchwaite.com]という友人がいます。彼は Visual Basic に一目ぼれしてしまった人物で、当時、『Visual Basic How To』 [amazon.com]という初の Visual Basic 関連書籍を執筆した人物でもあります。
彼はVB上にあった「VBについて」という記述の中に私の名前を見つけ、電話をかけてきました。「Visual Basic を使っていて、クーパーという名前を見つけたんだが、それは君のことかい?」と尋ねてきました。「そう、私のことだよ」と答えると、彼は「これは驚いた。僕にその話をしてくれないといけないね」と言いました。
2人でランチを食べながら、長い長いストーリーを話しました。話の最後に彼は、あきれ顔になってこう言いました。「君こそ Visual Basic の父といえる人間なんじゃないか」。
私は「ありがとう」と言いました。彼は私の経歴をたった一言にまとめてくれたのです。それ以来、私が自分のことを「Visual Basic の父」と称するときはいつでも、ミッチェル・ウェイト氏の言葉だと説明しています。
その頃にはすでに、ソフトウェア業界の統合合併が進んでいました。私がVBの仕事を始めたころは最低でも 100 社程度のソフトウェアの発行元がありましたが、仕事を終える頃にはマイクロソフトくらいしか残っていませんでした。外部から購入したソフトウェアを発行するような企業はほとんどなくなってしまいました。企業は買収するか、再建するかだったのです。
TA: それで、90年代初期には、(やりたいことを進めるために)違うやり方を考え出す必要があったのですね。
AC: そうです。私自身はソフトウェアのコードを書く仕事をしたかったのですが、当時、ソフトウェアを作るためには大きな企業の大きなチーム力が必要でした。でも私にはそれがなかった。私はまた、大規模なソフトウェアを扱いたかったけれども、1人で作業したいとも考えていました。
解決方法は何もありませんでした。そうしたあるとき、妻が私に「あなたはいったい何がやりたいの?」と尋ねました。私は「ただソフトウェアの設計をやりたいんだ。でも開発はやりたくないんだ」と答えました。「そう、じゃぁ、そうすればいいじゃない」。これが彼女の答えでした。その言葉で私は考えさせられました。どうやればそれができるかが分からなかったのです。
それまでの私は、コンサルタントになって他人が開発するソフトウェアを扱うなんて全くつまらないことだと思っていました。世の中には「自分が作るソフトウェア」と「できの悪いソフトウェア」の2種類しかないと本気で考えていたのです。これは、プログラマーが世間に対してとる傲慢な態度の典型ですね。しかし、私は妻に言ったのです。「わかった。じゃあやってみるよ」とね。
1992 年のある日、私はボストンで開催された Windows 関連のカンファレンスでパネルディスカッションを設け、そのセッションの最後でパネリストたちに向かってこう告げたのです。「さて皆さん、私はコンサルタントなのです。いずれ私を雇うことになりますよ」。
パネリストのうちの2人が、実際に私を雇ってくれました。驚きました。1人とは短期的な契約を交わしただけですが、結果的には5~6年後に、再度私を雇ってくれました。私がチームを組んだもう1人はジョン・ジッカー氏 [sanasecurity.com]で、こちらは長期のコンサルティングを行う関係になりました。彼が自分で立ち上げて成長させて売却した3つの会社を通じて、彼を支援することになりました。
TA: これが、クーパー社 [cooper.com]の起源でしょうか?
AC: そうです。コンサルタントとして、1人でデザインコンサルティングだけを手掛けました。2年間はクライアントを相手に PowerPoint [en.wikipedia.org] のプレゼンテーションを行い、スケッチを作成していたのです。
TA: インタフェースのための構造を設計したのですね。
AC: そうです。2年間が過ぎた頃には、私はコンサルタントとして常に忙しい状態になっていました。ある日私は妻 [cooper.com]の元に行き、「今日1日、私の行動に一緒についてきてほしい。何かが形になってきている気がするんだ」と話しました。
人々に話を聞いてもらい、そして熱狂的な反響を得ている私を見た彼女は、「あなたの言う通りね。ここに何かあると思うわ!」と言ってくれました。私たちは、単に私がコンサルティングをするというだけでなく、いよいよ新しいビジネスを生み出すことに決めたのです。これが 1994 年のことでした。ウェイン・グリーンウッド氏 [elevenconsulting.com]を最初の従業員として迎え、クーパー・インタラクションデザイン社が誕生したのです。
TA: ご自身を製品化する手法を考え出さなくてはならなかったのですね。
AC: ええ。私たちは新しいオフィスを借りて、部屋の1つを「エーリングルーム(けんか部屋)」と呼ぶことにしました。なぜなら、私とウェインはその部屋に入っては互いに怒鳴り合っていたからです。プログラマーたちがよくやるように、「いや、これではだめだ!」と言い争っていました。私たちは本当に苦労して、ゼロからこういったやり方を作り上げたのです。
私は、ジョン・ジッカー氏のプロジェクトに取り組んでいました。彼も、そして彼のために仕事をする人々もみな、卓越して優秀な人々です。そして彼らには、素晴らしい製品がありました。
まだ「ビジネスインテリジェンス」という名前は考案されていませんでしたが、その製品はまさにビジネスインテリジェンス・ツールの走りといえるものでした。この製品ではデータベースの中から重要な情報を抽出し、実に洗練された情報として画面上に配置し、さらに様々なやり方でユーザーがその情報を「もみほぐす」ことができたのです。
途方もないほど説得力を持つプログラムでした。自分が欲しいどんなかたちにも変形できるような、典型的なソフトウェアツールです。私が椅子に腰をかけて、ジョンに「一体だれがこれを使うんだい?」と言うと、彼はそこらへんを軽快に歩き回るのでした。誰にでもどんな目的にも使えそうだったのです。
私は、誰が何のためにそのツールを使うのが妥当かをつかみきれずにいたので、自分がこれに打ち込むための実例を切望していました。そしてついに、「何人かのクライアントと話してみる必要があるな」と口にしました。堂々巡りに見切りをつける必要があったわけです。
ジョンは、自分のクライアントを私に何人か引き合わせてくれましたが、私とクライアントだけではどうしても話をさせてくれないので、マーケティングディレクターを連れて行きました。こうして私は外へ出て初期のクライアントに会いに行ったのです。私は科学者ではないし、調査をしているわけでもありませんが、私のほうから行って「あなたはどんなことをなさっている方ですか? どんな問題を抱えていますか?」と尋ね、そこから話を聞き始めることにしたのです。
6~8回くらいインタビューを続けているうちに明らかなパターンが見えてきました。偶然にもそのパターンは、バンク・オブ・アメリカでITマネージャが話していたこととよく似ていました。覚えているでしょうか、彼には、分析用アルゴリズムを考えるアナリスト、それを使うアナリスト、そしてデータ収集をする技術者の3種類の従業員がいたのです。
これらのケースでは3種類のインタフェースが必要とされました。1つはツールを生み出す人々が使うもの、2つめはツールを組織化する人々が使うためのもの、3つめは単にそのツールを使う人々のためのものです。こうやって、私は最初に3人のペルソナを考案したのです。ロブ、シンディ、チャックが最初のペルソナとなりました。
TA: これはいつのことでしょう?
AC: 1996 年のことですね。
TA: その頃、すでに『About Face』 [amazon.com]に取り掛かっていたのですか?
AC: 『About Face』が発行されたのは 1995 年のことです。ペルソナが人物の特徴を表すツールとなる前に書かれています。
TA: 書籍の執筆は、とてつもなく大きなプロジェクトです。そしてあの本は、インタフェース関連本として最初に書かれた大掛かりなものです。その話を飛ばしてしまいましたね。
AC: あれは、1992 年~1994 年にやった仕事に基づいたものです。今振り返っても、びっくりすることばかりでした。ものすごくたくさん働き、たくさんのことを学び、そしてあの本を書いたのです。著者となって私が学んだのは、自分の能力を信じなければいけないということと、それまでの蓄積をすべて出し切って空っぽにならなければいけないということです。しまい込んでしまわずに、自分が知っていることのすべてをもって、紙の上に書き出さなければならないのです。
知っていることを心の中にしまい込んで「これこれについては、次の本を書くときまで話さないでおこう」などと思っても、読者は敏感に出し惜しみを察知して違和感を覚えます。「これが私の知っていることのすべてです」と断言し、「さらに伝えるべきことが出てきて、(知識の)貯蔵庫が再びいっぱいになるはずだ」と自信を持つべきなのです。
TA: それで、あなたの本はものすごく分厚くなってしまうのですね。その本の使い勝手が悪くなってしまうのではないかと、私は大いに心配していますが。
AC: その点は自覚しています。批判を甘んじてお受けします。もっと時間をかけることができていたら、もう少し薄い本にできたと思います。ハウツー本としてのあの本は、様々な意味でインタラクションデザインに関する議論の的になりました。「デザイン? 何のことだい? 私がちゃんとやってるよ。ちゃんとした機能がついているのに、一体何を言ってるんだ?」と言うプログラマーたちがいました。他方で、「プログラマーが作ったものを渡してくれれば、私たちがテストしてうまくいっている部分とダメな部分を報告するよ」というユーザビリティ派がいました。
私が言いたかったのは、出来上がってからテストするのでは遅すぎるということです。もっと早い時期に、先を見越したデザインをしなければなりません。私はこの考え方を本に記したかったのです。
TA: あなたはそれを公の場に向けて出版したかっただけですか? それともビジネスの場を作りたかったのですか? その両方ですか?
AC: 「出版したかった」というのが本音です。私には人に伝えるべき大切なことがあると分かっていました。それがビジネスにも役立つことは分かっていましたが、執筆した動機は、伝えたかったからです。
TA: 伝えたい気持ちであふれそうになっていたのですね。
AC: そう、今にも破裂してしまいそうでしたね。
TA: 1995 年にこの偉大なる書籍を執筆し、その後ペルソナのアイデアに思い至って考え始め、先ほどおっしゃった3種類のペルソナに着手されました。それは当時、あなたご自身のおっしゃるところの「ゴムのユーザー」問題にひどく悩まされていたためだったのですね。
AC: そう、典型的な「ゴムのユーザー」問題でした。
レポート・スミスという会社があって、そこでの仕事は素晴らしいものでした。そこは、ソフトウェアを作る優秀な人々がいて、優秀な管理者に経営されている、古典的なソフトウェア企業です。高度な性能を兼ね備えた素晴らしいプログラムであれば、自分たちは既にそれを持っていると考えていました。彼らには、何かがうまくいっていないということに気づく感覚はあったのですが、何が問題なのかがよく分からなかったのです。
それで私は、PowerPoint を使ってペルソナを紹介するようになりました。「これがシンディです」と語り始め、シンディが必要とするもの、シンディに必要なものを解説したのです。その途端に、自分が語っていることが相手に通じているのがよく分かりました。「ああ、僕にはシンディが "それ" をどうしたいのか、"それ" 以外のものがどんなふうに彼女の邪魔になっているかがよく分かる」と、そこに座っていたプログラマーが口にしたのです。そして私は、ここには非常に説得力を持つものがあると実感し始めました。
私には、それが SuperProject のコードを書いていたときにやったことの延長だと分かっていました。先ほど触れた、業務促進担当者のキャシー・リーを参考にしていたときの話です。私は長い散歩に出ては、「キャシーだったらこの状況をどうするだろうか? 彼女は "あの" 情報ではなく "この" 情報を必要としていることは分かっている…」などとつぶやいていたものでした。それを若干拡張したり要約しながらも、同じことをレポート・スミス社の人々と実践していることに自分で気づいていました。そこで初めて、ペルソナに名前と顔を用意したわけです。
TA: 『About Face』は、インタフェースデザインのハウツーそのものです。その後執筆なさった『The Inmates Are Running the Asylum(以下、Inmates)』では、本格的なコーディングや、プログラマーが使いやすいソフトウェアを書くことを元来苦手とする理由について述べていらっしゃいますね。
AC: 『Inmates』の背景にあったのは、インタラクションデザインのためのビジネスケース(投資対効果検討書)を作るというアイデアでした。しかし、自分自身の信用を得るためには、人に何かを好きになってもらう(ための技巧)以上のものがインタラクションデザインにあるということを少し話すべきだと思ったのです。
インタラクションデザインにれっきとした過程があることを示さなければ、ただ「とにかくみんなで仲良くやっていきましょうよ」と人に呼びかけているようで、なんだか底が浅いように思えたのです。
TA: ある意味では、これ以上にうまく話題になる方法はなかったでしょうね。
AC: (笑)
TA: ここに、その分厚い本があります。ほとんどの方、少なくても実践主義の読者には、第9、10、11章が話題になるでしょうね。当時ユーザーインタフェース分野で活動されていた人には、第1部はとても面白いけれども「釈迦に説法」といえる内容だったでしょうね。
AC: そうですね。
TA: そうして、ペルソナという発想が人々を圧倒したのですね。
「ツールとしてのペルソナ」の確立
AC: ええ、その通りでした。私も驚きました。ペルソナが有用で強力なものだということが私には分かっていましたし、自分がやる仕事ではいつも使っていましたし、自分たちの仕事の基礎になっているということも認識していました。しかし、当時はまだ自覚に欠けていました。世間の人々の考え方を変えるほどのものであるということを、十分に理解していなかったのです。
ペルソナは自分が開発したツールの1つであって、他の人はまた別のツールを開発するものだと思っていたのですから。
TA: それが、Goal-Directed Design ™ [cooper.com](ゴールダイレクテッドデザイン:目標駆動型デザイン)という方法論の部分だったのでしょうか?
AC: ええ。その頃までには、「ゴールディレクション」というアイデアをはっきり描いていました。たくさんのツールを考案していたのですが、タスクではなくゴールに焦点を当てるというアイデアもその中の1つでした。しかし、タスクとは機能であり、機能とはコードの集合ですから、プログラマーであればタスクに注目するものなのです。
たくさんの機能がありながら一貫性のない大きなソフトが出回っている理由は、プログラムには機能が絶対に必要ですが、一貫性はなくても済んでしまうからです。ソフトウェアは、その内部の構築方法を忠実に反映するものなのです。
ユーザーの視点からプログラムをとらえてみると、機能ごとに組織化する必要があるとは限りません。機能毎に組織化すべきかどうかの観点を持つには、ペルソナを通して考えてみると良いのです。全てのつじつまが合って見えてきます。
とても嬉しく思ったこともあります。『Inmates』の第9章ではペルソナについて、10章ではシナリオについて、11章ではゴールについて、とても具体的に書いていますが、それは私がただ大口をたたいているだけではないということを伝えたかったのです。それは、執筆時に自分自身に言い聞かせたことでした。
この本は、実践者のためのハウツー本とは全く考えていませんでした。ビジネス界で仕事をする人々に対し、ユーザー中心デザインを適用すべき理由を示すだけでなく、もしそれを実践したら、極めて洗練されていて実用的なやり方を適用することになると示そうとしていました。
ペルソナをきちんと理解して、利用し始めてくれた読者がいることを知って、本当に大きな驚きと喜びを覚えました。
TA: 読者がペルソナを作り始めたのですね。
AC: そうです。たくさんの人がペルソナを作り出していました。ただ、ペルソナを活用したり理解したりできない人もいました。多くの人々が、私がペルソナについて解説したことを誤解してしまいました。私が明白にしたいのは、ペルソナは、正確であることよりも具体的であることの方が大切だという点です。
私は「ペルソナがないよりも間違ったペルソナがあるほうが良い」と言っていますが、多くの人はそれを見て、気まぐれにペルソナを作ることを私が擁護していると考えてしまい、批判的になりました。でも私はそんなことは言っていません。
私が伝えたいのは…、かつてマイクロソフトのメンバーにも言ったことなのですが、Microsoft Word を使う人が4千万人いて、そのみんなが Word を苦手と感じているということです。典型的な1人を代表として抽出して、その人のためにソフトウェアを設計したらどうなるでしょうか? その人をソフトウェアに夢中にさせてみるのです。その1人が真に代表的な人物だとすれば、そのソフトウェアに夢中になることができる似たような人々が1千万人はいるはずだということなのです。
結果的には、1千万人の新しい熱狂的なユーザーと、感想が以前と変わらない3千万人のユーザーが存在することになり、これでも大幅な改善だと言えるでしょう。
TA: 現在私は、ペルソナのためにデザインするという説明を人にするときに、「1人のために考えたならば、最低限でもその1人については、隅々までつじつまが合うようになるはずだ」と話すようにしています。もしも1人のためにデザインしなければ、その製品は最初の画面でユーザーを才能あふれるコンピュータエンジニアとみなし、2番目の画面では88歳のお年寄りとみなすかもしれません。もし高齢者の女性のためにソフトウェアを開発しているときに、NFL のプロフットボール選手のペルソナを使っていたとしても、筋の通ったものを生み出す可能性は高いでしょう。
AC: 「フォルクスワーゲン [en.wikipedia.org]はみんなの車であってみんなの車でない」という言葉の中にそのアイデアがありますね。実際には、フォルクスワーゲンは "人々の自動車" という意味であり、あらゆる人々のために設計されたものです。ただ、成功につながったのは、あらゆる人々のために作られていないからなのです。全く違うのです。
みんなを「象徴する」人物のためにデザインされたものであり、その人物とは、大きい高級車を買えない人のことだったのです。同様に成功しているのが、ポルシェ 911 [en.wikipedia.org] で、こちらは非常に小さな目標市場のためにデザインされたものです。
ポルシェ 911 は "非常に" 小さな目標市場中の小さな目標市場のためのものです。他方、フォルクスワーゲンは "非常に" 大きな目標市場を代表する非常に小さな目標市場のためにデザインされたのです。
フォルクスワーゲンとポルシェ 911 に関して興味深いのは、両方とも、長い時間をかけて証明されてきた企業であり、ブランドであるということです。初めて紹介されてから今日まで50~60年も生産され、世界的に認知されて続けている自動車であり、彼らが標準となって、様々な変形を生み出してきたのです。
TA: 両者とも問題を解決していて、その解決方法が適切だったからですね?
AC: そう。両者ともたった1人のユーザーに注目したから解決できたのです。これこそペルソナの力です。1人のユーザーを満足させることで、世界規模のブランドを確立したということです。
TA: 私自身、ペルソナが持つ重要な秘訣は、組織の中にレーザー光線のように明確な焦点を当てて働きかけることにあると考えたいのです。製品は、その焦点に付随するものだと。
AC: それはまさに、私が正確性よりも具体性に価値をおいて説明していることそのものです。もしジェーン・ジョンソンのための製品開発に着手するなら、ジェーン・ジョンソンというペルソナを作り、そのペルソナのためにソフトウェアを設計し、ジェーンを満足させます。そうしたならば…最終的に、ジェーンが間違ったペルソナだったとしても、それも1種の成功といえるのです。
そのペルソナが、意図したものとは異なる市場に関係してきますが、それも1つの成功です。数学的思考のプログラマーに、たった1人の人間に焦点を当てて考えさせるのは本当に難しいのですが、非常に良いことなのです。
プログラマーに、インタラクションデザイナーにもなってもらえば問題を解決できるはずだと考える人々がたくさんいます。
しかし私は、それは全くの誤解だと思っています。優秀なプログラマーをつかまえ、その人にプログラミング以外のことをしてもらう理由はどこにあるのでしょう。インタラクションデザインは、インタラクションデザイナーにやってもらうべきです。
TA: そしてまた、プログラマーとインタラクションデザイナーが話し合うときに発生する問題を解決する必要もあるのですよね。
AC: その通り、これは極めて重要なことです。図らずもペルソナは、彼らのコミュニケーションをとるためにも最高の道具なのです。例えばあなたがプログラマーに、「私はこのウィンドウをもっと小さくするべきだと思いますよ」と言っても、プログラマーが思い浮かべるのは「フン、こいつはもっと小さくしたいと思っているが、私は大きいほうがいいと思うし、頭がいいのはこっちだ」といったことでしょう。こうやって、突然2者が対立する状態となり、プログラマーがあなたに勝負を譲ることはまずあり得ません。
TA: 結局、製品をコーディングするプログラマーが勝つということですね。
AC: そうです。十中八九、実際に扱っている人間が勝つのです。
だからあなたは、プログラマーのところに行って「私はこのウィンドウをもっと小さくするべきだと思う」という代わりに「ジェーン・ジョンソンだったら、このウィンドウはもっと小さいほうを好むと思いますよ。理由はこれこれです」と話すべきなのです。
そうすれば、もはやあなたとプログラマーのプライドのぶつかりあいではなくなりますし、プログラマー側も「そうか、ジェーン・ジョンソンがそう望むんだね。オッケー、分かったよ」と言えるようになるのです。
ペルソナは、分極化を避け、競合するエネルギーを外在化させることによってコミュニケーションを促す最高の道具です。これがペルソナのもつ大きな強みの1つなのです。
TA: おっしゃる通りですね。コンサルタントは、家庭内の競争場面に似たような状況に陥った企業へ、心理学者として入っていると思います。
AC: ええ。
いま、そしてこれから
TA: ビジネスが進展して確固たるものになってきて、今まさに『About Face 3』 [amazon.com]が公開されたところですね。
AC: この金曜日に第一刷を手にしたところですよ。
TA: さて、あなたは会社の運営に成功し、確固としたプロセスが動いていて、素晴らしいクライアントも得て、そして素晴らしく活発な頭脳の "管理人" ですね。今はどんなことをしていますか?
AC: たぶん、まだまだやるべきことがあるだろうと思います。
ソフトウェアを構築する手法について、たくさんの洞察を持ち始めているところです。これは、世界中の大企業、中小企業、ソフトウェア企業、製品製造企業、サービス企業など何百ものクライアントと何千もの契約を持つコンサルタントとなったことによるおまけです。
実にはっきりしたパターンが見え始めているのではないでしょうか。私は、自分たちが経験してきた問題はソフトウェアのデザインに起因するものではなく、ユーザビリティの問題でもなかったと認識し始めています。私自身が繰り返し何度も見てきた問題は、ソフトウェアの構造の中にあったのです。
15年前、プログラマーは青写真なしでソフトウェアを開発していたものです。しかしこの15年の間に私たちは、優れたデザインでありながらコミュニケーションもとりやすく、性能が高く、効率性の面でも優れているような、極めて高品質な青写真を描く方法を学んできました。
プログラマーの前にその青写真を置いたときに私が気づいたのは、プログラマーにはそれが通じないということでした。それは、彼らが出来の悪い連中だからではありません。それどころか、大変頭がいいのです。主な原因は組織的なことです。企業はソフトウェアの作り方を知ってはいますが、ソフトウェアを計画的に作るという習慣は持ち合わせていません。
企業とはむしろ、計画を持たずにソフトウェアを作るのに最適な組織であって、明日何が起こるかわからないからこそ今やることに基づく処理が全てなのです。計画があれば、明日どうなるかが分かるようになりますので、そこで違う意思決定を行うことができます。
私にはこれが組織上の、そして経営上の問題であるということが分かってきましたので、クライアントに話をしてみました。しかし大変悔しいことに、私の言葉に聞く耳を持ってくれるクライアントはいませんでした。
TA: もちろん、そうでしょうね。
AC: これが技術的な問題でなかったからです。
TA: これは脅威でしょうね。やっていることが組織的に間違っていると指摘されるわけですから。
AC: そうなのです。でも、私にはこれが大きなチャンスに思えます。私自身が事業家ではなく発明家として考えるからですけれどもね。まだ存在しないものが見えてくると、私にはそれが派手なライト(ネオンライト)をピカピカさせてチャンスだと叫んでいるように思えるのです。ところが、おおかたの事業家たちはまだ存在していないものごとに気づいても、そこで考えるのはただひたすらリスクのことだけです。
このように警鐘を鳴らし続けて何年か経ったところで、私には、次の2つうち1つだけが真実だということがようやく分かってきました。私の考えが全くの間違いであるか、もしくは、この新しいソフトウェア開発パラダイムに基づいて私がソフトウェア企業を立ち上げる機会であるかのどちらかです。
私は、思い切ってソフトウェア企業を立ち上げることに決めました。ソフトウェア製品の開発に復帰するときが来たと思っているのです。
TA: それが、次にやってくることなのですね?
AC: いいえ、これは4年前に終えたことです。新しい会社を作り、私自身でもソフトウェアをいくつか設計しました。私がすべてを設計したわけではありません。というのも、チームを組んで適切に設計するということがその作業の一部だからです。そして私は、このプロジェクトのためにベンチャーファンドを得ようとしていろいろ動き回りました。しかし結局工面することはできませんでした。新しいプロセスに資金を供給する人がいないのです。
投資家が事業家のようになってしまっているため、私は資金を工面することができませんでした。彼らはビジネスとしての観点から見るのです。リスクを伴う可能性は受け入れられても、着想の飛躍は受け入れられないのです。
その時点で「よし、鉄道模型を組み立てる時がきたのだ」と自覚しました。それが今やっていることです。鉄道模型を組み立てています。
TA: 列車の話に戻りましたね。
AC: そうなのです。私はいまニッケルプレート鉄道会社 [nkphts.org]の一部の再建に取り組んでいます。この鉄道は、1949 年にはオハイオ州のリマからインディアナ州のフランクフォートまで走っていたものです。
この夏はミッドウエストまで足を伸ばし、昔の鉄道路線の跡をたどって写真を撮り、歴史研究の団体に入って調査しようと思っています。インディアナポリスで情報収集をして、自宅に戻ってから列車模型に取り組み続けるつもりです。
TA: 物語が一周しました。インタビューを完結させる頃合のようですね。
本日は本当にありがとうございます。素晴らしい冒険と旅をご一緒できて幸せです。
プロフィール
アラン・クーパー氏略歴
アラン・クーパー氏は、テクノロジーとユーザーとの間に渡る架け橋として、大きな影響を与えてきた人物。『The Inmates are Running the Asylum: Why High Tech Products Drive Us Crazy and How to Restore the Sanity』 [amazon.com](邦訳:『コンピュータは、むずかしすぎて使えない!』)、『About Face』 [amazon.com](邦訳:『ユーザーインターフェイスデザイン―Windows95時代のソフトウェアデザインを考える』)、その後継である『About Face 2.0』 [amazon.com](邦訳未刊)、『About Face 3』 [amazon.com](邦訳:『About Face 3 インタラクションデザインの極意』)の著者であり、米サンフランシスコにてインタラクションデザインとユーザーエクスペリエンス関連のコンサルティングを行う Cooper 社の創設者でもある。
タマラ・アドリン氏
タマラ・アドリン氏略歴
本記事のインタビュアー兼原著者。米 Adlin 社創設者、プレジデント。米 Fell Swoop 社共同設立者。エクスペリエンスストラテジスト。Amazon.com および Amazon Service でカスタマーエクスペリエンス・スペシャリストとして活躍。カスタマーエクスペリエンス・デザインチームの立ち上げにも関与した。その後自身のコンサルティングファームである Adlin Inc.を設立。数多くの企業で、顧客の真の思考や行動に焦点を当てたカスタマーエクスペリエンス・コンサルティング手法を用いてチームを牽引した経験を持つ。2008 年に Fell Swoop を設立。
『The Persona Lifecycle : Keeping People in Mind Throughout Product Design』 [amazon.com] (邦訳:『ペルソナ戦略―マーケティング、製品開発、デザインを顧客志向にする』)共著者。
このインタビューは 2007 年 9月27日に実施されたものであり、記事の原文「 An Interview with Alan Cooper 」はUX Pioneers サイトに掲載中です。
本サイトに掲載している UX Pioneers の記事は、著者(インタビュアー)とインタビュイーより許可を得て、翻訳・転載しているものです。
お詫び:2009年7月17日より2010年6月25日にわたり、本記事中にて、撮影者の許諾を得ていない写真(記事原文に掲載されている、8インチフロッピーの写真画像)を掲載しておりました。
関係者およびご利用の皆様に多大なご迷惑をお掛けしたことを深くお詫び申し上げます。
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